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| 14ゲーム差 大逆転劇の主役・ルイジアナの稲妻 ロン・ギドリー(ヤンキース現ピッチングコーチ) |
| 1978年。ヤンキースは宿敵レッドソックスに7月18日時点で14ゲームという大差をつけられた。 しかし、この年のヤンキースは驚くべき底力を発揮して、 最終戦では、ついにレッドソックスに追いつき、1試合のみのワンデープレーオフに持込み、 ついに、優勝を勝ち取ることに成功する。 |
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2007年。今年のヤンキースは5月29日に14.5ゲームという過去に逆転したことがないほどの 大差を、78年と同様レッドソックスにつけられてしまった。 しかし、多くのヤンキースファンは、14ゲームをひっくり返した78年の再現を期待して、 熱烈な声援を送っている。 |
| さて、78年の大逆転劇で主役を演じたのが、 その当時、「ルイジアナの稲妻」と異名をとったロン・ギドリー(現ピッチングコーチ)である。 彼はこの年のギドリーは開幕からの13連勝、 後半戦も12勝2敗(年間通算で25勝3敗、防御率1.74、サイヤング賞を満票で受賞) という驚異的な成績をを記録した。 |
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大詰めの直接対決で、レッドソックスを2安打完封、ワンデープレーオフでも6回まで レッドソックス打線を2点に抑える好投(勝利投手)で、圧倒的な勝負強さを発揮した。 |
| 結果的に、ヤンキースはワールドシリーズでも、ドジャース相手に、2連敗後4連勝して、 この年のワールドチャンピオンに輝いている。 |
| 1978年の大逆転劇は、ヤンキースの長い歴史のなかでも伝説となって記憶されている。 |
| 2007年、人々は78年の再現に胸を膨らませているが、5月に14.5あったゲーム差が 8月には4ゲーム、5ゲーム差というところまで、迫ってきた。 一気に逆転してしまうのかと思わせる勢いも、9月にはちょっともたつき、再び引き離されてしまいましたが。 |
| 果たして、この先、どう展開するでしょうか。 「投手のがんばりが勝敗の鍵を握っている」とトーリ監督。さて、ルイジアナの稲妻、ロン・ギドリーピッチングコーチのお手並みは? |
| 雷切(らいきり)と呼ばれた男、立花道雪: | |
| 立花道雪という人は,1531年に豊後国(大分県)の大友家の家臣、戸次親家(べっき ちかいえ)の次男として生まれた。本来の名は戸次鑑連(べっき あきつら)である。1560年には大友家を離反した立花家を討ち、立花城に入城。その後、立花姓を継いで立花道雪を名乗った。以後、道雪は主君である大友宗麟を盛り立て、その優れた人柄や勇名は東日本にまで広まったという。 | |
| 立花道雪が雷切と呼ばれたのは、彼が木の陰で雨宿りしていたとき、雷に襲われたことによる。 | |
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とっさに彼は、所持していた刀「千鳥」でその雷(雷神)を切ったと伝えられている。道雪は、雷にうたれたものの半身不随になりながらも一命は取りとめた。 |
| 人々は道雪が雷神を切った、雷を切ったと噂した。 | |
| この事件の後、道雪は彼の刀の名を「千鳥」から「雷切」と改めたといわれている。 | |
| 雷に打たれたとき、落雷は刀を直撃したのかも知れない。彼は武士らしく、とっさに刀を抜き、そこに雷が落ちた。雷が先か、太刀を抜いたのが先か、そのところは謎のままである。 | |
| われわれは雷が雷雲中に蓄えられた電気の放電現象であることを知っており、そのエネルギーの大きさも知っている。彼が雷の直撃を受けたのだから、どれほど恐ろしい危険な体験であったか想像がつく。 | |
| しかし、この時代の人にとって、得たいの知れぬ「雷神」に襲われ、とっさに雷神を切った彼の体験は、別の意味で、現代人が感じる雷の恐怖よりも、はりかに恐ろしく危険な体験と感じられたことだろう。 雷を切り殺し、半身不随になりながらも、いのちを取り留めた立花道雪の体験、衝撃の大きさは、語り継がれるのに十分な価値があった。 | |
| 相撲界で、強すぎたため、悪役扱いされたりしたかわいそうな力士たちがいました。 | |
| 北の湖は絶頂期、勝てば勝つほど嫌われたような印象があります。外国人力士であったため、正当に評価されなかったように感じられたのは、小錦でした。対戦相手が土俵で殺される(ちょっとオーバーでしょうか)ような恐怖を感じたというほど、彼は強かったのですが、横綱に昇進できませんでした。 そんな強い力士たちもかすんでしまうような、とてつもない力士がいます。 | |
| 23歳で力士となり、45歳で引退しましたが、彼の生涯の相撲成績は、なんと254勝10敗、引き分け他21です。 |
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| あまりにすぎるため、張り手、カンヌキが禁じ手とされ、使うことを許されませんでした。その制約があって、なおこの成績ですから、どれほどの力士だったのか、想像を絶する強さです。ともかく驚きです。 | |
| この人物こそ、伝説の力士「雷電為右衛門」です。 | |
| おそらく相撲史上最強の力士であることは間違いないでしょう。単に、勝率がすごいというのではない、なにかこの世離れした凄み・すごみを感じます。雷が名前に冠せられるのは、いずれも何か桁外れのすごい人たちばかりです。 | |
| 他に、雷の文字がつく力士では、稲妻雷五郎という人が、雷電より50年ほど後に現れましたが、この人も勝率9割を超える成績を残しました。最近では、琴稲妻という力士がいましたが、雷の文字はありません。「雷電」クラスのかみなり・雷の事故や被害から家電/PCのを守るには正しい対策をしましょう。 | |
| キリストの12弟子には、2組の兄弟がいた。 | |
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1組はペテロとアンデレ。このペテロは12弟子の中でも頭的な存在であり、初代の教会を指導した人物である。 もう一組は、ヤコブとヨハネという兄弟である。 弟子になる前は4人とも死海に近いガリラヤ湖で漁をする漁師であった。 ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は12弟子の中でも、格別にキリストが愛した人たちである。 この3人だけは、どんなときにも、そばに置いた。 |
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| キリストはこのヤコブとヨハネの兄弟2人にボアネルゲ(雷の子)というあだ名をつけた。 | ![]() |
| ちなみに、ペテロというのもあだ名で、岩という意味である。 実際のペテロはおっちょこちょいで、愛すべき性格であるが、おっちょこちょいゆえの問題もたくさん起こした。 | |
| 本名はシモンである。岩というには程遠い軽い男シモンをペテロ(岩)と呼んだのは、ユーモアであり、愛情でもあったようである。 | |
| ペテロは、初代キリスト教会の指導者であり、パウロと並んで尊敬された人物である。暴君として名高いローマ皇帝「ネロ」の時代に殺されたと考えられている。 | |
| さて、ヤコブとヨハネの兄弟に付けたボアネルゲ(雷の子)という呼び名も、ヤコブとヨハネの性格の激しさ、怒りっぽさや気まぐれのために、そう呼ばれたのか(一般にそう考えられている)、逆に、おとなしく、気が弱いので、ユーモアや彼らに対する愛情からこのような名で呼ばれたのかは定かでない。そのようなことを推測できるような明らかな情報は残念ながら残っていない。 | |
| 兄のヤコブは、12弟子の中で最初に、キリストの死後まもなく殉教の死を遂げた。 弟のヨハネは、90才近くまで生きた。 12弟子の中でもっとも若かったと考えられており、最後まで生き残った人物である。 そのため、初代キリスト教会を長く指導し、長老として格別に尊敬された。 | |
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ヨハネが書き残した文書は、いずれも聖書の中に現存しており、 ヨハネの福音書とヨハネの黙示録が有名で、他に短い手紙が3通知られている。 「初めに、ことばありき」(文語訳)という書き出しで始まる福音書は、 平易な言葉で書かれているが、深遠さ、格調の高さで他に類をみない優れた文書である。 |
| ヨハネがもともと深い思索家であったのか、それともキリストとの出会いによって、怒りの子(ボアネルゲ・雷の子)が、深遠な思索家に変わったのかは定かでない。 | |
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どれほど多くの人の人生に深い影響を与えたかは計り知れない。文学書への引用も数えることができない。 |
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| しかし、人々に与えた影響の大きさは、雷のエネルギーも遠く及ばない。 | |
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雷のような抑えがたいエネルギーも正しく制御すれば怖くないということになるでしょうか。 家庭の電気製品、通信機器、PCも適正な対策を講じれば、雷による事故から守ることができます。 「Newサンダーガード」はこちらです。 |
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| さて、余談であるが、 |
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| ダビンチコードで話題になったキリストの最後の晩餐の絵で、女性的に描かれているため、マグダラのマリアとされている人物は歴史的に、このヨハネと考えられている。 新約聖書に書かれた最後の晩餐の記述から、ダビンチはヨハネ、ペテロ、裏切り者のユダの構図を決めて描いている。 | |
| ただ、ヨハネがあまりにも女性的に描かれているため、マグダラのマリアという新説が登場したのである。 | |
| ダビンチの時代、イタリアの絵画では、若者を女性的に描くのは、きわめて普通のことであった。 ひげのない若者を女性のように美少年として描くのが習慣であった。 | |
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ダビンチの描いた別の絵でヨハネ(バプテスマのヨハネ:別人)は、実際は荒々しいイメージの苦行僧のような人物であるが、まさに、マグダラのマリアと間違えられたヨハネに負けず劣らず女性のように描かれている。 |
| ダビンチだけでなく、ラファエロの最後の晩餐でもほとんど同じようにヨハネは女性のように描かれている。 | |
| ダビンチコードのお話は、絵画史や当時の時代背景等をよく理解しない説明でり、すぐに忘れられる一過性の内容であり、秘密が暴かれたような話題にはいつも多くの人が飛びつくものである。 | |
| イワン雷帝(正しくはイワン4世) | |
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1530年8月25日生まれ:1584年3月18日没 在位期間:1533年~1584年 リューク朝モスクワ大公国の君主 |
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幼いころから動物を虐待し、殺すことに喜びを感じ、即位後は敵対者、反逆者を容赦なく抹殺した。クレムリンの高い塔の上から、犬、猫のような動物を投げ落として殺すことが好きな遊びだったと聞くと、正直、ぞっとするような人物である。 |
| 彼の激しい気性と気まぐれのため、彼に疑われた者は側近でも、その場で処刑された。拷問を好み、できる限る残虐な方法で、多くの人を公開処刑した。 | |
| いろいろな拷問の方法を考案し、どのようにすれば処刑されるものが最も苦しむか研究し、人々が悶え苦しむ姿を見ることが喜びであったと思われるような人物であった。彼は疑わしいものを探し出して処刑するために、数千人規模の親衛隊を結成し、密告されたものは拷問によって口を割らせ、殺害した。 | |
| 殺戮の規模はまるまるひとつの都市を抹殺するほどで、ノヴゴロドという都市の住民の虐殺の際には、わずか数時間で老人も子供も女性も区別なく虐殺し、その遺体はヴォルフ河に無造作に捨てられた。 |
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| 氷の浮いたヴォルフ河は、何万とう遺体に溢れかえり、ラドカ湖は、流れ着いた遺体で厚い層を成して積み重なったいわれる。 | |
| またモスクワの聖ワシーリ聖堂を建設したとき、彼はそのあまりの美しさに感動し、設計者がそれ以上に美しいものをつくらないようにと、彼の目をえぐり出したという伝説も残されている。ただし、これは史実ではないというのが一般的な理解である。 | |
| 独裁者の常で、彼は側近にいつも命を狙われているという不安から、疑い深く、また、気性の激しさ、気まぐれさは自分でも抑え切れなかったようである。彼の妻アナスタシア死後、また発作的な怒りで最愛の長男を自ら殺害してしまう悲劇的な事件を通し、彼の異常さは極限にまで達してしまった。 | |
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雷帝という呼び名は、彼の粗暴さと冷酷さ気まぐれさなど、雷の恐ろしさと共通するものがある。 |
| 雷帝とはよくも名づけたものである。とは言うものの、雷には激しさはあっても、彼のような邪悪さはない。 | |
| 側近でさえ雷帝から自分の命を守ることは誰にもできませんでしたが、雷の恐ろしい被害から家電、PCは守ることができます。 | |
| 第2次大戦のとき、多くのユダヤ人が強制収容所で過酷な生活を強いられ、また殺されたことはよく知られている。ナチスは残虐の限りを尽くした。 | |
| しかし、大戦が終わったあと、時代が変わり、人々の立場も変わった。 イスラエルはナチスの戦争犯罪人を必要に追いかけ、世界のどこに隠れていようとも、見つけ出して、裁判にかけようと追跡の手を緩めなかった。 | |
| 大戦中、イワン雷帝と恐れられた人物がいた。ナチス・ドイツの強制収容所で死刑執行人を務めた人物である。 ナチスの収容所の多くの看守は、残虐で、冷血で恐れられていたが、その中で、際立っていたのがイワン雷帝と呼ばれていた男である。無数のユダヤ人を情け容赦なく虐殺した男である。 | |
| その人物と思われる男をイスラエルが潜伏先で見つけ出し逮捕したというのだから、大変な騒ぎになった。 |
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| ジョン・デミャニューク被告 | |
| 彼が「イワン雷帝」として恐れられたあの人物だったかどうかをめぐり1970年代から長く論議となっていた。 イスラエル最高裁は93年ジョン・デミャニューク被告に証拠不十分で無罪判決言い渡した。 | |
| その後彼は以前住んでいた米国に戻っていたが、今度は米移民裁判所が、国外退去処分を命じる決定を下した。 | |
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理由は大戦時の記録から、彼があのイワン雷帝であるかどうかはわからないが、彼が複数の強制収容所で看守を務めていたのは明白とする米裁判所の判断が2002年に出され、米市民権を喪失したのである。 この結果、彼は出身地のウクライナかドイツ、ポーランドのいずれかに送還されることになる。 |
| 被告側は上訴する見通しである。収容所で無数のユダヤ人を情け容赦なく虐殺した男、ナチのイワン雷帝は、いったい誰だったのか? | |
| 最終的な答えは出ていない。 | |
| このような人物の名前に雷という言葉が冠されることは、いろいろなことを考えさせらえる。 雷の物理的被害、事故は悲惨ではあるが、 ナチスのイワン雷帝がもたらした被害のような、悪、罪、暗黒は自然の災害の中にはない。 | |