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歴史に残る雷

日本で最初の避雷針

避雷針を考案したのは、かの有名なフランクリンです。
最初の避雷針は1753年といわれています。(最初は彼の自宅)
その後、徐々に世界に広がっていくのですが、
各国で最初に取り付けられたのは、

イギリス:1760年 エディントン灯台
ドイツ:1769年 ハンブルグの聖ヤコブ教会
フランス:1773年 ディジョンの科学学士院会館

といわれています。

始めのころは、知識のない人が、見よう見まねで取り付けたりしたので、
工事そのものが、かなりずさんで、いい加減なものが多かったようです。

当時、「避雷針屋」という言葉が流行するのですが、この意味は「いい加減」という
ほどのことだったようです。

避雷針が日本に入ってきたのは、それから100年もたった1875のことです。
金沢の前田利家を祀る尾山神社の楼門建設のときに設置されました。

北陸の雷は関東のように夏発生するのではなく、「冬雷」です。
冬雷は夏雷と比べて落雷が多いのが特徴です。

記事の詳細はこちら | by masato at 2007/06/30

モーセの十戒

聖書を知らない人でも、「汝殺すなかれ」という、モーセの十戒については少し知っているかも知れない。チャールトン・ヘストン主演で映画化された。
400年間、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民がモーセに率いられて、エジプトを脱出し、約束の地パレスチナに向かうという出来事である。旅の途中、シナイ山で神様から「十戒」を与えられる。「十戒」とは、その約束の地で、イスラエルが「どのように生きるべきか」示した守るべき戒めである。
Lightning021SS.jpg   この旅立ちの日がイスラエルでは1年の始まり、正月であり、過越しの祭りとして今も祝われている。過越しの食事が中心的な位置を占めている。
(実際には1月14日から21日まで)
ちなみに、キリストが十字架につけられたのは、過越しの祭りを守った翌日のことである。キリストが弟子たちと守った「過越しの食事」こそが、ダビンチの絵でも有名な「最後の晩餐」である。
奴隷の民が簡単にエジプトを脱出できたわけではなく、イスラエル人を奴隷として留めておこうとするエジプト王(パロ)とイスラエル人を解放して、約束の地パレスチナへ導こうとするモーセとの対決が映画でも見ものである。
モーセはエジプト王に対し神の力をもって数々の奇跡を行い、イスラエルを開放するように迫ったのである。エジプトはついにイスラエルを奴隷として留めておくことができなり、エジプトからの脱出を認めざるを得なくなったという話である。
次はそのモーセがエジプト王(パロ)の前で行った奇跡のひとつについて聖書の抜粋である。
「モーセが杖を天に向けてさし伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。」

エジプト中で農作物は壊滅的な被害を受け、家畜、農民が雷と雹で命を失ったといわれている。まさに、歴史を変えた雷でる。この出来事はBC13世紀のことと考えられている。これはそのときエジプト建国以来最大の雹害といわれた。
Lightning022SS.jpg  
この出来事により、イスラエル人は紅海を渡り、40年にわたる荒野の放浪の末、現在のイスラエル国家があるパレスチナに住むことなる。この後イスラエル王国は、ダビデ、ソロモンという王によって、エルサレムを中心に最盛期を迎えるが、程なく、アッシリア、バビロニアに滅ぼされ、国を失い、2000年間、世界に散らばり、ユダヤ人といえば、どこでも嫌われ者となった。
シェークスピアのベニスの商人で、借金のかたに、肉を1ポンドよこせと、迫ったのはユダヤ人の金貸しである。
20世紀、イスラエルの建国により、ながく、パレスチナに住んでいた人々が国を失った結果、今日のパレスチナ問題となって、今日に至っている。(もちろん、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとってエルサレムが特別な都市であることにも深い関係がある。)

イスラエルではモーセによる出エジプト、過越しの祭りが、イスラエルの建国の日であり、今でも、最大の行事である。さらに、「十戒」は、モーセが神の山と恐れられたシナイ山に登って、神様から、授けられるのだが、そのときの様子は、次のようである。
ここにも雷の記事がある。

山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。シナイ山は全山が煙っていた。その煙はかまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

聖書は2000ページ弱の書物であり、人々の生活と深く関わりのある内容であるため、いろいろな自然現象にも触れられている。
天候に関して雷の記事は決して多くはないが、重大な出来事のときに、記述されている。
雷は、イスラエルの歴史に、深くかかわっている。この出来事は、ユダヤ教の家庭の子供たちも、またキリスト教徒の家庭の子供たちも、幼いときから繰り返し聞かされている出来事で、彼らにとっては、まさに、誰でも知っている身近な出来事である。
記事の詳細はこちら | by masato at 2007/03/12

道真の祟りと恐れられた清涼殿2度の落雷

藤原道真は平安時代の秀でた学者、政治家である。
承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月31日)
道真を祀る北野天満宮では学問の神としてあがめられている。
彼は宇多天皇に重用され右大臣にまで昇るが、左大臣藤原時平にの策略でその地位を追われ、大宰府へ権帥として左遷され、そこで没した。(903年)
道真が失意の中、京の都を去る時の未練を歌った歌が、
「東風吹かば、にほひをこせよ、梅の花、主なしとて、春な忘れそ」
である。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も今に残る。
Lightning023SS.jpg 
 
   
道真の死後、京にはたびたび厄災が発生した。時平の病死、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。とくに人々に恐れの念を引き起こしたのは、京都御所・清涼殿への2度の落雷だった。
この落雷で、公卿2人が死亡し、その他多数の人がやけどなどの負傷をおった。朝廷は、これらが道真の祟りだと恐れ、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。これにより、道真の子孫もその地位を回復することになる。さまざまな厄災の中でも、落雷は当時の人にとって、とくに衝撃的であり、人々は「道真の怨霊」が雷神となって祟りを引き起こしたと恐怖に陥った。
 
 Lightning024SS.jpg 道真の祟りを鎮めようと、京都の北野に北野天満宮を建立したことにより、道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。道真が生前優れた学者・歌人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。これもまた歴史を変えた雷ということができるだろう。
次は百人一首に収録されている道真の歌である。

「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」
記事の詳細はこちら | by masato at 2007/02/14

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記事の詳細はこちら | by masato at 2007/02/01
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